松江城の歴史
城下町松江の歴史
慶長五年(1600)の関ヶ原の合戦において、徳川家康率いる東軍に味方した堀尾吉晴・忠氏父子は、家康による論功行賞の結果、出雲・隠岐二か国二四万石を領地として与えられた。これをうけて同年11月、父子ともに出雲国の月山富田城(安来市広瀬町)に移ったが、戦国時代に尼子氏が居城としたこの山城の下の谷底平野は、兵農分離を前提とした家臣団を収容する城下町を築くには狭すぎた。このため、出雲入国後まもなく、堀尾父子は新たな城地の選定を始め、ついに宍道湖東端に位置する末次の地・極楽寺山(亀田山)に新たな城を築くことに決したのである。そして、慶長12年(1607)から五年の歳月をかけて建設されたこの城下町は、松江と呼ばれるようになった。
松江の城下町には、城郭周辺の殿町・母衣町・田町・内中原町・外中原町などに武家地、その南側に位置する宍道湖北岸・末次に町人地、そして大橋川をはさんで南側の白潟に町人地と寺町が配置された。
堀尾氏とこれに続く京極氏が継嗣断絶のためこの地を去ると、松平氏が入国したが、松平氏により天神川の南側一帯に足軽町(雑賀町)が整備されることにより、城下町の構成はほぼ確定することになった。身分ごとの居住を基本とした城下町の構成は、明治4年(1871)の廃藩置県後、多くの武士たちが松江の地を去ったのに伴い大きく変容したが、すぐに島根県庁が置かれることになり、松江は政治的な中心都市としての地位を保持して現在に至っている。第二次世界大戦による戦火を免れたこともあり、街路や水堀は江戸時代のまま残るところも多く、城下町の風情を今日に残していると言えよう。
松江城と天守
松江城は、本丸・二之丸(同下ノ段)・三之丸からなっている。本丸の中心には天守が位置し、かつてはこれに付随して荒神櫓(祈祷櫓)・武具櫓などの櫓とこれを繋ぐ多門櫓・瓦塀が本丸をとり囲んでいた。天守とこれらの櫓や多門櫓には、石落としや鉄砲狭間・矢狭間が設けられるなど、種々の防御上の工夫がなされていた。一方、二之丸には藩主の邸宅や蔵などの藩の施設が設けられていたが、藩主の居宅と役所を兼ねた御殿は一七世紀後半には三之丸に移された。
天守自体の竣工は慶長15年(1610)と伝えられるが、廃藩置県後の廃城に伴い、全国の他の城と同様、松江城の天守も取り壊しとなる恐れがあった。しかし、豪農勝部本右衛門や旧藩士高城権八らの尽力によって保存が実現し、1935(昭和10)年には国宝に指定された。その後、1950(昭和25)年の文化財保護法の制定に伴い、「重要文化財」に指定されて現在に至っている。
松江城の天守は、二重の大屋根の上に三階建ての望楼を載せた望楼型天守である。地階には穴蔵を有し、附櫓を南面に付している。大屋根の中には石落とし(隠狭間)が隠され、70か所も設けられた狭間(附櫓にさらに14)の中には附櫓に向けて開口しているものすらあり、下見板張りの質朴な外観とともにすこぶる実戦的な天守である。なお、天守の高さは石垣部分を含めて約30メートルあり、これは現存する天守の中では、姫路城、松本城に次いで高い。築造年代の古さや規模から言って、日本を代表する天守の一つと言ってよいであろう。
小林 准士 Kobayashi Junji 島根大学法文学部准教授・山陰研究センター企画研究員 島根大学法文学部社会文化学科 歴史と考古コース(日本史学研究室) |